更科
原作を読んでみて、これを映像化すれば面白くなるな、と判断した決定的な箇所はありましたか?
山本
ふとももですね(笑)。ふとももを必死で描いている監督さんって、今もいらっしゃるんですよね。後藤圭二さんとか、そういうフェティシズムがありますけ
ど、それとはちがうアプローチの仕方があって、そ9れはやっぱり女性の目から見た女の脚だったんですよね。男が見た女の脚――宮崎駿さんの脚でもない、沖
浦さんの脚でもない、後藤圭二さんの脚でもない。武梨えりさんという女性の作家が『女の脚萌え』にこだわったという
p107
ところが一番大きかったりするんですね。とはいえ、それで萌えアニメになるかというと、ちょっと違うんですよ。
更科
原作はシンプルな「萌え」ではない、というか、読者との微妙な共犯関係の上で成立している作品で、必ずしも男の欲望に最適化されているわけじゃありませんからね。それで、どちらかというと、谷崎潤一郎みたいなフットフェティシズムに持って行きたかった、と?
山本
その程度に抑えておこうっていうか、内在化させたいってことですよね。そのへんのバランスがすごく難しくて、いま苦戦してるんですけど。
更科
いわゆる「萌え」とフェティシズムの中間をどう取るかという。
山本
そんな感じですね。「萌え」というものをもうちょっと後衛に落として、背景化させる。たとえば80年代によくあった、知らんうちに一つ屋根の下に暮らして
いるという設定とかでも、萌えアニメはそれを当たり前のものとしてそこからあれこれ付け足しちゃうんですけど、そのシチュエーションそのもののドキドキ感
を描くという、たとえば『翔んんだカップル』みたいな、すごくシンプルな構造、ラブコメですよね。萌えアニメじゃなくてラブコメ。
だから、僕は打ち合わせの時に必ず『ママはアイドル』と『パパはニュースキャスター』見てねって言ってるんですけど、この二本によく似てるなって思ったんですよ。
更科
ああ、シチュエーションコメディですね。七十年代だったら『雑居時代』とか『お荷物小荷物』とか。
山本
そうですね、それを前面に押し出して、脚の描写は後衛に配する。僕はそれを宮崎さんから学んだつもりなんですよ。
それこそ『コナン』であったり、『カリオストロの城』であったり、『ナウシカ』でもなんでも、そういうフェティシズムを濃厚に出してるんですけど、それを
シンプルな枠で納めている。そういう作業を今一度しなければいけないんだろうと思ったんですね。『かんなぎ』の脚を見た瞬間、そういう構図が見えたんです
よ。シンプルなストーリーに脚フェチ。つまり『古典』ですよ。宮崎さんから連綿と受け継がれている伝統的な手法というものを今、復活させなきゃ、というと
ころで繋がった。『かんなぎ』原作の見せ方も、狙ってるようですごくスマートなんですよね。
更科
そうですね。ストライクゾーンひとつ外してくるみたいな。
山本
ボール1個ぶん外してるんですよ。『オイ! オマエら! 脚好きやろ! 見ろ!』って感じじゃないんですよ。そのさじ加減が非常に上手い。脚ひとつで決めたような感触はありますね。
更科
脚の扱いを「萌え」の中心に置いているのに、タイミングひとつ外しているところに惹かれた、みたいな感じですか?
山本
これも実は『(旧)妄想ノオト』に書いたんですが、脚に関して、塩田明彦さんの『害虫』という映画を取り上げて、その論評をしたんですよ。少女を描くため
にはまず脚だと。立ち方ひとつにも不安定さであるとか、思春期の揺れであるとか、全部表現できるんだと。ぶっちゃけ、上半身はなくてもいい、下半身だけで
表現するんだというポリシーがあって、それを実写の中で塩田明彦さんもやってるんですね。『害虫』だけじゃなくてデビュー作、えーと……。
更科
『月光の囁き』ですね。
山本
そうです。あれも完全に脚フェチの映画じゃないですか。それで蓮實(重彦)さんから突っ込まれてましたけど。脚フェチは分かるけど、この撮り方は良くない
んじゃない?
って(笑)。とにかく、女の子を主人公にするためのポリシーやノウハウが『かんなぎ』には詰まっていた。その象徴的な部分が、脚の描き方だったな、と思い
ますね。
更科
女性作家が男性読者へ向けて描いているものを、改めて男性作家がどう扱うかというところで、バランス取りの難しさがあると思います。
山本
実は、『純情ロマンチカ』みたいな女性向け作品もやろうかな、と考えてはいるんですけど、やっぱり『ハルヒ』『らき☆すた』の後、もう一回、女の子を主人公にしてシンプルな脚フェチの物語を描け、と言われたのは、キャリア的な流れとして、すごく腑に落ちた部分ですね。
- 〈デタラメな奇跡〉としてのアニメ - PLANETS VOL.5