“現在では、多重録音システムとシンセが発達したおかげで、
このような微笑ましいテープを聴く事はなくなりました。
そのせいで、我々作曲家は、以前よりも楽曲のプレゼン用に作る『デモテープ』に
もの凄く手間がかかるようになって来ました。
そう、凄く手の込んだ『デモテープ』の登場です。
そのテープを聴いただけで、もうすでに完成品ではないか?と思われるくらい
作り込んだものが主流になってきました。
これは選ぶ側の意識の問題だと思うのですが、曲に対する想像力を必要としなくなり
作曲家と編曲家の棲み分けが、曖昧になると言う弊害も生み出しつつあります。
つまり、あまりにも完成し過ぎているので、作曲後の編曲と言うステップで
楽曲のイメージの固定化が激し過ぎ、
そのイメージをどうしてもぬぐい去る事が出来ずに、
結局、『デモテープ』通り、と言う編曲になりがちです。
これは、私はあまり好ましい事ではない!と思っています。
作曲家と編曲家が同一人物なら、別に良いのですが、
違うなら、そこに一種の『化学変化』がなければならない、と思うからです。
『デモ』通りにやるのなら、別に編曲家に依頼しなければ良い訳ですからね。
私が、編曲を別の人にやってもらいたいのには、この『化学変化』を
期待している事にあります。
私の才能と彼らの才能が上手く交わった時、凄く面白くなるケースを
数多く見て来たからです。
だから、私の『デモ』はわざと作り込む事を避けているのです。
これはこれで今まで成功してきましたが、弊害があります。
『コンペ』では非常に不利なのです。
多数の中から『コンペ』で選ばれる作品は、たいがい『デモ』が
極端に作り込んでいるものが勝利する事が多いのです。
聴き手側が、そのサウンドや編曲の豪華さに、ごまかされているのですが、
今の曲はメロラインだけではなくて、サウンドを含めた総合点で評価され過ぎだと
思いますね。
だから、メロディーの太い楽曲が現れにくくなり、必然ヒット曲も少なくなって
しまいました。”
- デモテープ|田中公平のブログ My Quest for Beauty
このような微笑ましいテープを聴く事はなくなりました。
そのせいで、我々作曲家は、以前よりも楽曲のプレゼン用に作る『デモテープ』に
もの凄く手間がかかるようになって来ました。
そう、凄く手の込んだ『デモテープ』の登場です。
そのテープを聴いただけで、もうすでに完成品ではないか?と思われるくらい
作り込んだものが主流になってきました。
これは選ぶ側の意識の問題だと思うのですが、曲に対する想像力を必要としなくなり
作曲家と編曲家の棲み分けが、曖昧になると言う弊害も生み出しつつあります。
つまり、あまりにも完成し過ぎているので、作曲後の編曲と言うステップで
楽曲のイメージの固定化が激し過ぎ、
そのイメージをどうしてもぬぐい去る事が出来ずに、
結局、『デモテープ』通り、と言う編曲になりがちです。
これは、私はあまり好ましい事ではない!と思っています。
作曲家と編曲家が同一人物なら、別に良いのですが、
違うなら、そこに一種の『化学変化』がなければならない、と思うからです。
『デモ』通りにやるのなら、別に編曲家に依頼しなければ良い訳ですからね。
私が、編曲を別の人にやってもらいたいのには、この『化学変化』を
期待している事にあります。
私の才能と彼らの才能が上手く交わった時、凄く面白くなるケースを
数多く見て来たからです。
だから、私の『デモ』はわざと作り込む事を避けているのです。
これはこれで今まで成功してきましたが、弊害があります。
『コンペ』では非常に不利なのです。
多数の中から『コンペ』で選ばれる作品は、たいがい『デモ』が
極端に作り込んでいるものが勝利する事が多いのです。
聴き手側が、そのサウンドや編曲の豪華さに、ごまかされているのですが、
今の曲はメロラインだけではなくて、サウンドを含めた総合点で評価され過ぎだと
思いますね。
だから、メロディーの太い楽曲が現れにくくなり、必然ヒット曲も少なくなって
しまいました。”
- デモテープ|田中公平のブログ My Quest for Beauty