レディースデイに私がホールを歩いていると、ド・ブーア=ブキッキオ氏ならば児童ポルノ—幼い女の子が性行為におよぶファンタジーで、中には非常に年老いた男性を含むものもある—とみなすであろう内容のコンテンツを陳列する数列の並びに入り込んだ。それは、もし我々の事例の一つとして直面していたならば、私は顔をしかめつつもロバート・クラムが振りかざす不滅の屁理屈「それは紙に描かれた単なる線の集まりですよ、皆さん!」を引き合いに出し、防御に入ったであろう類のものだった。しかしとても啓発的だったのは、これらのコミックがたいていごく普通の、中年から年配の女性により販売されていたことである。これらのコミックの内容を知り、その著者と話をすると、これらのストーリーが犯罪行為や虐待を行う誘発要因でないことは明らかで、著者や読者の想像上の人生を反映させ、ファンタジーやロールプレイングの一形態として表現されたものだったのである。
漫画は想像力のための安全な空間として機能している。漫画の形をとることで声を発する幅広い種類の性的なファンタジーが現に存在し、中には疑う余地もなく不穏で不快なものもある。しかしそれらは現実ではなく、実在する人々を傷つけているわけではない。こうした漫画の創作と消費に対して法的なリソースを割いたとしても、実在する人々を保護する手助けにはならない。そしてド・ブーア=ブキッキオ氏が指摘するように、保護を必要とする人々が実在する。残念なことに、メディアの話題はそうした人々に焦点を置いていなかった。漫画に焦点を置いていたのだ。それは危険にさらされている実在の人々を助けることから注意をそらす、残念な成り行きである。”
- うぐいすリボン: なぜ過激なマンガを禁止することは児童保護へとつながらないのか